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歴史文化

木曜日 - 16/08/2012 07:56

ホイアンは長い歴史と多くの伝統的な文化を持つ地域です。長い年月と時代を経て、今の文化が造られました。ホイアンという地名以外『ラム・アップ』(林邑)、『ファイ・フォー』など世界でよく知られている名称があります。

有利な位置にあるホイアンは2000年ほど前から、後期Sa Huynh(沙黃)文化が存在し、発展しました。4つの埋葬遺跡(An Bang, Hậu Xá I, Hậu Xá II, Xuân Lâm)と5つの駐在拠点(Hậu Xá I, Trảng Sỏi, Ðồng Nà, Thanh Chắm, Bàu Ðà)において、考古学研究を行った結果、多種で独特な甕棺から、石・陶器類・ガラス・金属で作られた生産用道具、生活用器具、精巧なアクセサリーなどが発掘されたことで、繁栄したSa Huynh文化の存在を証明しました。そして、掘削穴で中国の漢王朝時代の金銭、鉄で作られた西漢風の鉄器、精巧なアクセサリーなどが掘り出されたことで紀元1年からホイアンで外国との貿易が形成し始めたという興味深い事実も分かってきました。
   チャンパ王国(Chăm Pa)の時代(9,10世紀)、ホイアンは「ラム・アップ」(林邑)と呼ばれ、繁栄した港町として中国・ペルシャ・アラビアからの多くの商船がここで産物の交易や商売を行ってきました。多くの古籍には、長い年月、ラム・アップ・フォーがチャンパ王国の王都であるチャキュウ(Trà Kiệu)とミーソン(Mỹ Sơn)聖地の繁栄に大きな影響を与えたことも示されていました。チャム(Chăm)遺跡の土台、チャム(Chăm)の井戸、舞踊家ガンハラ像、守護神クベラ像、神の象の像などのチャム(Chăm)の彫像、そして2~14世紀年代の中国・大越・中東の陶器の一片が発掘されたことでホイアン(大越時代の名称)が存在する前にラム・アップ・フォー(チャンパ時代の名称)がチャンパ王国の港町であり、繁栄・発展した港町という仮説が強まりました。
    便利な水辺の環境と他の要素とあいまって、16世紀から19世紀にかけて一時期繁栄を失ったホイアンの港町が再び発展し栄えていました。この港町自体の魅力および以前から形成されていた海のシルクロード、陶器ロードが存在することで多国の商船が来航し、交易を行っていました。
    多くの史料にホイアンの港町の繁栄した姿が残されていました。Thích Ðại Sán(釋大汕)氏は『海外紀事』の中で、港は出入りの商船で混雑を極め、遥かにそびえる帆柱が弓でおおわれ森のように見えたと書いてありました。Lê Quý  Ðôn(黎貴惇)氏の『撫邊雜錄』の中でも、ホイアンでは品物は何でも揃い、大型船100隻でも全部を一度に運べないほど大量な物資があることも書かれていました。当時、ホイアンはベトナム全土および東南アジア地域において最も繁栄した国際貿易港であり、中南部ベトナムを支配した阮朝時代の重要な経済拠点でもありました。
 
    19世紀後半から、ホイアンの港町は徐々に衰退し、一時期の繁栄を失い、交易の中心はダナン港に移りました。だが、そのおかげで、近代都市に変貌するような都市化の現象の影響から逃れ、ホイアンは現在に至るまで独特で素晴らしい古い町並みを残すことができました。
    外敵との戦いの117年歴史(1858年~1975年)、ホイアンの数千人が国の独立・統一のために犠牲となり、多くの地方と多くの方々に『英雄』称号が贈られました。
    1998年8月22日にホイアンは国から「人民軍隊の英雄」として表彰されました。そして、1999年12月4日、ホイアンの古い町並みは国際連合教育科学文化機関(UNESCO)により世界文化遺産に登録されました。その際、ホイアンが再びベトナム政府から「ドイモイ(刷新)事業における労働英雄」称号が贈られました。

 

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